社畜解放ブログ

自分の人生を取り戻そう

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プロフィール|自由を目指すぼくの生い立ち(随時更新)

プロフィール

 

こんにちは。せのしゅん(@senosyun_archi)です。

 

 

セミリタイア&移住を目指して、

不動産ディベロッパーとして働いている30代の会社員です。

 

 

この記事では、ぼくのプロフィールをつらつらと書いていきたいと思います。

 

 

ぼくがどんなことを考えて生きてきたか。

それを踏まえてこれからどんな生き方をしていきたいか。

これを読めばちょっぴり垣間見えるかと思います。

 

 

1万文字オーバーの長文です。

 

 

出生・幼少期

 

せのしゅんは1989年(平成元年)に広島県で、

せのしゅん家の長男として産声を上げました。

 

 

父は東京のエリート私大を卒業して大手インフラ会社で働き、

母は寿退社をして専業主婦。

 

 

絵にかいたようなエリート社員と短大卒一般社員の社内恋愛です。

 

 

3年後には弟(顔がそっくり)が生まれ、

4人家族で特に転勤もなく広島県で過ごしました。

 

 

さすがにあまり記憶はないですが、

唯一覚えているのが、社宅の友達について。

 

 

5歳くらい年上の近所のお兄ちゃん(たしか工藤さん?)のことをめちゃくちゃ慕っていました。

 

 

近所の空き地に行って、

ブルーシートをかけた秘密基地をつくり、

その中で土を盛ってイスをつくったりしていました。

(いわゆるブルーシートハウス)

 

 

工藤さん、今どこで何してるんだろ。

 

 

小学生

 

小学1年生で、

家を買ったことにより広島市内で引っ越し・転校をしました。

 

 

転校先の小学校では、

とにかく男子にはサッカーが流行っていました。

 

 

サッカーがうまい人が、

スクールカーストの上位に位置する、

というパターンでした。

 

 

ぼくはそれまでは割と本が好きで、

どちらかと言うとインドア。

週に2冊くらいは本を読んでました。

 

 

でも、小学生ってやっぱり、

みんなからの人気者になりたいじゃないですか。

 

 

がんばってサッカー始めたんですが、

やっぱり上手くない。

 

 

休憩時間にチーム分けをするんですが、

人数が奇数だと最後に1人余るのがぼく。

 

 

で、最後にも「いらない」と言われたのをよく覚えてます。

(こどもって残酷ですよね)

 

 

みんなから認められたい一心で、

サッカーを本気で練習し始めました。

 

 

根がまじめなもので、

休みの日には、12時間以上ずっと公園で練習していました。

 

 

そのころのスクールカーストの上位3強が、

「つっちー」「けいちゃん」「すーぎん」の3人。

(すーぎんは高校時代に、地元の暴走族の総長になります)

 

 

サッカースキルはこの3人に負けないくらいに上達し、

さらにぼくは勉強が出来たので、

それなりに人気者になりました。

 

 

卒業するときのクラス新聞で、

出世しそうとか、いろいろ名前が出てきたと思います。

 

 

ちなみに、あだ名は勉強ができたことから「博士」でした。

(ヒドイあだ名です)

 

 

総じて、小学生時代は楽しかったです。

 

 

グループとかもなくて、

人間関係もごちゃごちゃしないし、

上位3強についで、そこそこ人気者でしたし。

 

 

中学生

 

一方で、中学校はあまり良い記憶がありません。

 

 

まずはグループがたくさん出来て、

人間関係が複雑になってきました。

 

 

修学旅行でUSJに行ったときのことです。

 

 

自由時間にどのグループと回るかで、

みんながいろいろ画策していました。

 

 

ぼくは人に媚びるみたいなのが本当に嫌でしょうがなくて、

何もしませんでした。

結果、完全に孤立しました。

 

 

修学旅行って、こどもにとっては酷な行事だと思います。

 

 

学校の日常でも、例のスクールカーストの上位3強が、

不良グループになっていきました。

 

 

大きく分けると、

イケてる不良グループと、

真面目グループに分かれていました。

 

 

そこでぼくが目指したのは、

イケてる真面目グループ。

 

 

どちらのグループにも媚びるのが嫌で、

自分のポジションを確立することを目指していました。

 

 

「つっちー」「けいちゃん」「すーぎん」とも話すし、

真面目な「しげ」「ひっさん」「かーわん」とも話す。

 

 

思春期の人間関係って大変です。

生きるのってむずかしいなと思いました。

 

 

一方、サッカーはどんどん上手くなりました。

これがイケてる人にランクインするための条件ですからね。

 

 

ポジションはMFのボランチ。

コートの中盤で試合をコントロールする役割。

 

 

もともとはFWでしたが、

人からパスをもらうよりも、パスを出して人を動かしたい、

ということを何となく考えていました。

(漫画のキャプテン翼の影響)

 

 

ここでもFWになりがちなイケてる不良グループと、

DFになりがちな真面目グループをつなぐポジションでした。

 

 

中学生の時期は、

わりとぼくの原体験みたいな感じが多かったように思います。

 

 

変わらずに勉強は出来たので、

県内一番の高校を目指すこともできました。

 

 

が、サッカーをもっとやりたい、ということで、

サッカーが強くて、勉強もできる学校を選びたいと思いました。

 

 

ただし、この高校には普通科の中に2つ種類がありました。

普通コースと理数コース。

 

 

偏差値が高いのは理数コースで、

両親のすすめでこの高校の理数コースを選びました。

 

 

今思うと、理系か文系かって、

将来を決定するポイントなのに、

親のすすめなんかで決めてしまったことは後悔です。

 

 

とにかく中学校時代はスクールカーストに翻弄されて、

人に媚びたくない自分としては、とても生きづらかったです。

 

 

ちなみに、彼女も初めてできました。

でも気が付いたら親友にとられていました。

 

 

今思うと、おもしろい思い出です。

 

 

高校生

 

さきほど書いたように、

高校は理数コースに入学しました。

 

 

そこで驚いたのが、

理数コースには、中学校で言う真面目グループしかいないこと。

 

 

ガチで牛乳ビンの底みたいなメガネをかけた人が、

クラスに5人はいました。

 

 

しかも30人クラスで女性は4人とか。

 

 

自分で言うのもアレですが、

サッカーも勉強もできたぼくは、

何もしなくてもイケてるグループでした。

 

 

でも、ぼくはどんどん孤立を深めていきました。

 

 

なぜなら中学校と同じように、

グループや派閥争いで、疲れたくないから。

 

 

けど別に孤立がつらくはなくて、

むしろ誰にも気を使う必要がないから楽しかったです。

 

 

これは今も同じような考えです。

 

 

一方、サッカー部での練習は苛烈でした。

 

 

O監督がとくに厳しく、

平気で怒鳴られるし、

水を飲むのも時間制限あるし、

真夏に50mを50本ダッシュとかさせられるし。

 

 

特にヒドイのは、ボールを顔面に向けて蹴られて、

「避けるな!」と言われたこと。

 

 

連帯責任で全員ボウズにしたりしました。

 

 

人生で一番おこられた時期だと思います。

 

 

とは言え、これまでずっと自分の考えだけで

サッカーをしてきたぼくにとっては、

初めての指導者。

 

 

指導をきちんと実践することで

実際に上手くなることがわかりました。

 

 

ぼくは中学生のときから、

サッカーノートというのを書いており、

日々の反省をしていました。

 

 

今思うと、まさにPDCAです。

 

 

高校3年間でもノートを4冊以上書き続け、

これが上達した一因だと思っています。

 

 

なんでもじぶんで考えながら、

コツコツと試行錯誤を積み重ねるスタイルは、

このときに身につけたものだと思います。

 

 

チームも強くて、

最高で中国地方の大会でベスト4になりました。

(ぼくも出場しました)

 

 

とにかくキツイサッカー部でしたが、

一緒にサッカーをした仲間とは、

全員と強い友情がありました。

 

 

友情がありました。と過去系なのは、

卒業後、疎遠になってしまったから。

 

 

なんとなくグループ意識やカーストが出来たり、

ぼくが苦手なカラオケに行ったり、

いわゆる地元のノリが強くて、

あまり合わなくなってしまいました。

 

 

自分から去っていったけど、

みんな元気にしてるかな。

 

 

勉強はガッツリとは伸びなかったものの、

関西の有名私立大学に合格しました。

 

 

学部は理工学部の建築学科。

理由は、ぶっちゃけ理系の中から消去法で選んだだけです。

 

 

数学科も、電気も、情報システムも別に興味ないし、

まあ建築ならカッコイイかな?くらいです。

 

 

とは言え、何も興味のある分野がなかったかと言うと、

そんなことはありません。

 

 

竜馬が行くを読んで、航海士に興味がありました。

世界中のいろんなところに行って、

色んな土地を自由に見て回る、自由な人生に憧れました。

 

 

両親にも話しました。

でも、根っからのインフラ企業体質の我が家では、

航海士なんてもってのほか。

 

 

航海士は危険が多いとか、

給料が低いとかの情報をいろいろもってきた結果、

消去法で進路を決めちゃいました。

 

 

航海士と同じように色んな場所を見て回れることが出来る、

総合商社とか、パイロットとかも、

面白いのになぁと今なら思います。

 

 

とにかく、ぼくは「建築」という

めちゃくちゃドメスティックな分野に進みます。

(なお、有名建築家の名前はだれも知らない)

 

 

最後に、高校時代はモテ期が来ていました。

でもそれはそうで、理数コースには運動出来る、

イケてるグループの人が少ないからですね。

 

 

高2のバレンタインデーには、

同じグループの女の子2人からチョコをもらいました。

 

 

その後にグループ内でもめたそうです。

 

 

そのころのぼくは、ムダにカッコつけていて、

どちらともお付き合いはしませんでした。

 

 

とりあえず付き合ってみれば良かったのになぁ。

と、今なら思います。

 

 

大学生

 

人生の夏休みこと大学生活です。

 

 

理系とは言え、建築学科には女の子が多く、

高校時代に事実上の男子校だったぼくは嬉しかったです。

 

 

さて、建築学科に入ってみて思ったことは、

「別に建築とか好きじゃないな」ということです。

 

 

まわりの人は「安藤忠雄が~」とか、

「SANAAが~」とか言っていましたが、

本当にぼくはだれも建築家を知らなかったのです。

 

 

建築学科では、

「週末の別荘を設計しなさい」みたいな設計課題でます。

 

 

A1の紙に描くんですが、

これがまたつまらない。

 

 

細かい線をひたすら引いて課題を持っていっても、

いろんな人からダメ出しをもらいました。

 

 

その上、課題に時間がかかるので、

完全にやる気をなくしました。

 

 

入学1年目で、建築の道は諦めています。

まあ、消去法で決めたくらいですからしょうがないね。

 

 

一方でサークル活動では、

サッカーサークルでキャプテンをやったり、

世代別の大会に出たりと楽しみました。

 

 

気楽にサッカーするのが、

やっぱり楽しいですね。

 

 

サークルは仲いいメンバーしか集まらないですし、

楽しくなければ辞めたらいい、

というオープンな感じが好きでした。

 

 

この点が、クラスのグループとの大きな違いだと思っています。

(ぼくが好きな著者である、橘玲さんの言う「伽藍」と「バザール」)

 

 

アルバイトもしました。

 

 

建築学科だからと意気込んで、

まずは資材を運ぶ仕事をしました。

 

 

が、仕事が大変すぎて初日で身体の疲労が限界に。

がっつりサッカーしていたから自信あったのですが・・・

 

 

翌日の仕事は参加できず、

職人の親方から怒られました。

怒られ過ぎて、給料を受け取れないとこでした。

 

 

でも建築ってのは、

こういう人たちの努力で出来ているんだなとしみじみしましたね。

 

 

次に始めたのは、お弁当屋さんです。

選んだ理由は、家の近くにあって弁当がまかないで食べられるから。

皿洗いもないので楽かなと。

 

 

ここの仕事はほんとうにラクでしたが、

時給は700円~と激安でした。

 

 

ここのバイトは卒業まで続けました。

 

 

1つ覚えているのは、

売り上げがなかなか上がらず、

当初は予定になかった配達業務をやらされそうになったこと。

 

 

店長から、配達お願いできる?と聞かれたのですが、

当初予定になかった業務ですよね?と言ったところ、

「もういい!」と言われました。

 

 

結果、ぼくのかわりに店長が配達をしていました。

 

 

申し訳ない、という気持ちもありつつ、

最終的には責任者がやるしかないんだな、

ということを学びました。

 

 

大学3年になると進路を考える時期です。

 

 

ぼくは何となく、

「勉強はできる方だし、大学院に行くかな~」

と思っていました。

 

 

が、大学4年の4月ごろに

就職活動をみんなが終わっているのを見て、

ふと気が付きます。

 

 

「あれ?ちゃんと設計をやらずに大学院に行くのって俺だけ?」

 

 

当たり前ですが、建築学科で大学院に行く人は、

建築の道を究めたい人です。

 

 

建築に大して興味もなく、

設計もちゃんとやってこなかったぼくが、

行って良いところではないんですね。

 

 

ぼくはいつも自分の人生に受け身でした。

 

 

サッカーを始めたのも、周りの友達の影響。

理数コースに進んだのも、親の指導。

航海士になって、

世界のいろいろなところに行きたいという夢を

あきらめたのも親の影響。

 

 

グループとかカーストが嫌い、とか言いつつ、

周りに流されているのがぼくでした。

 

 

このときは、本当に絶望します。

 

 

就職活動もほぼ終わっている。

大学院に行ったら設計をやっている人しかいない。

 

 

いっそ、留年してやろうかと本気で考えました。

 

 

散々なやんだ末、出した結論としては、

設計もこれから勉強して、大阪大学の大学院に行く、

という選択でした。

 

 

せっかく建築学科にいるんだから、

設計のことをちゃんと学ぼう。

そのためには大学院に行って学ぼう。

 

 

さらに就職のことを考えると、

大阪大学に行ったほうが良いに決まっている。

(京都大学でも良かったけど、ビビりました)

と考えました。

 

 

これはぼくの人生の中でもわりと大きめのチャレンジでした。

 

 

さて、まずは大学院の受験からです。

 

 

大学院を受験する場合、

内部生が圧倒的につよく、外部生は弱いです。

 

 

理由は単純で、授業でやっている内容が出題されるから。

 

 

ぼくはこのハンデを乗り切るため、

徹底的に阪大生のところにツテを頼って、

勉強を教えてもらいに行きました。

 

 

もはや人生に一度絶望した背水の陣ですから、

怖いものはありません。

 

 

使えるものはすべて使い、

阪大生に手土産とかを持って、

勉強を教わりにいきます。

 

 

恥も捨てて、死に物狂いで勉強しました。

 

 

結果は合格。

絶望の淵から、人生の光明が見えてきました。

 

 

続いて、設計です。

 

 

建築学科では卒業をするために、

卒業論文ではなく卒業設計を選ぶことができます。

 

 

多くの大学院に行く学生は、卒業設計を選びます。

 

 

ぼくは全然設計の授業をとってこなかったので、

卒業設計をやるために、夏休みの宿題に設計課題を1つやること、

それを研究室でプレゼンすることを教授から条件にされました。

 

 

大学院に行けばあと2回夏休みがあるわけだから、

1回くらい夏休みを削ってもいいか!

という気持ちで課題に取り組みました。

 

 

夏休みなのに毎日学校に行って、

泊まり込みでやっていました。

 

 

今思うと大した出来ではなかったものの、

夏休み明けにプレゼンをして、

なんとか卒業設計をやらせてもらえることになりました。

 

 

O先生、チャンスをくれて本当にありがとうございます。

 

 

いよいよ、本番の卒業設計です。

 

 

夏休みは1人でやっていましたが、

ここからは仲間もいます。

 

 

連日連夜、ディスカッションしました。

 

 

このときに、「論理的に話す」ということについて、

初めて学びました。

 

 

ぼくはデザインをどのように説明すれば良いのかわからず、

大学1年で諦めてしまっています。

 

 

でも、デザインは「論理的に」説明すれば理解をしてもらえる、

ということを学びました。

 

 

このデザインの「ツボ」を押さえたことが、

今の仕事でも「論理的に話す」ということに繋がっていると思います。

 

 

無事、卒業設計を完成させ、

大学を卒業することができました。

 

 

大学4年生のときに、

一番勉強を頑張りましたね。

この1年は本当に充実しました。

 

 

ちゃんと人生について考えて、

本気でやればなんとか道は開けるものだと感じました。

 

 

大学院生

 

さて大学卒業後、大阪大学の大学院に進学します。

 

 

当たり前ですが、

周りはみんな阪大生です。

 

 

最初は少し気後れすることもありましたが、

こちらはすでに背水の陣。

積極的に設計に取り組みました。

 

 

ここで存在感を見せれば、

阪大生たちも認めてくれるはず。

こういう気概です。

 

 

そして、最初の設計課題では、

ぼくが学内で1位になりました。

 

 

正直ミラクルです。

阪大生たちも見直してくれたと思います。

かなり自分に自信がつきました。

 

 

以降、阪大生の中でも存在感を出せるようになりました。

 

 

スクールカーストもなくて、

とても過ごしやすい大学院生活でした。

 

 

やっぱり、頭がいい学校に行くといじめが少ない、

というのは事実だと思います。

 

 

また、大学院1年生にとって重要なのは、

就職活動です。

 

 

大学4年生のときの絶望の経験があることから、

早めの準備を心がけました。

 

 

業界選びをする際に意識したのは、下記の2点。

1.建築に関わる仕事

2.発注側として指示する側の仕事

 

 

1は、せっかく大阪大学の大学院に来たからには、

これを活かさない手はない、という考え。

2は、昔から人に媚びを売るのは嫌いで、

指示されるよりも指示する側の仕事につきたい、

という考えです。

 

 

具体的には、

・不動産ディベロッパー業界

・まちづくりをしている鉄道業界

・建設業界(不動産開発職)、

あたりを狙っていました。

 

 

今思うと、

・世界中をめぐる仕事

・これから伸びる業界

なども考えれば良かったと思います。

 

 

(余談ですが、授業の一環で上海に行くことがあり、

世界中から人が集まっているまちの熱気を感じ、感動しました。

やはり世界をめぐる仕事は面白そうです。)

 

 

まあ、大学院を変えてまで建築の勉強をしたのに、

全然ちがう業界に行く、というのも難しかったかもですね。

 

 

とは言え、上記の業界を目指して就職活動を開始。

 

 

話したエピソードとしては、

・サークルで人数を増やした話

・授業の一環として大学と地元のお祭りを仕切った話

・弁当屋のアルバイトで、から揚げを効率よく上げる方法を編み出した話

などをしました。

 

 

一番ウケが良かったのは弁当屋のアルバイトの話です。

ご参考までに書いてみます。

 

 

弁当屋にはいろんな種類の揚げ物があります。

それぞれ揚げ時間が決まっています。

 

 

・からあげは3分

・ロースかつは6分

・チキン南蛮は2分30秒

みたいな感じ。

 

 

ふつうはキッチンタイマーを使って、

からあげ3分とロースかつ6分、

みたいなのをそれぞれセットします。

 

 

でも、キッチンタイマーの数には限りがあり、

忙しくなってくると、キッチンタイマーの数が足らなくなります。

 

 

そこでぼくは、

いかに少ないキッチンタイマーの数で、

たくさんの揚げ物を同時に作れるか、

という技を編み出しました。

 

 

具体的には、

最初にタイマーを6分にセットしてロースかつを入れて、

その3分後にから揚げを入れて、

その30秒後にチキン南蛮を入れます。

 

 

こうすることで、

1キッチンタイマーあたりの揚げ物数を、

3倍に増やすことができ、生産性が向上しました。

 

 

という話です。

この話をした面接では、大体合格できました。

 

 

「最終面接でから揚げの話を聞いたのは初めてだよ!」

と、褒められているのかよく分からないコメントももらいました。

 

 

「ウチが第一希望なら、他の会社に電話して断れる?」

と脅されたりなどもありました。

今なら適当にウソをつけるのですが、

当時はまだそんな度胸がなく、

アワアワして落とされました。

 

 

とは言え、最終的には、第一希望の会社に内定をもらい、

無事に就職することができました。

 

 

就職活動が終わったら、

あとは大学院生活をエンジョイして、

修士論文を書くだけです。

 

 

大学4年時は卒業設計などに時間を割いたため、

これまであまり行けなかった海外旅行にも、

たくさん行きました。

 

 

インド、トルコ、タイ、カンボジア、韓国などなど。

 

 

特にインドは衝撃的。

まちが汚いとかもあるのですが、

とにかくインド人のエネルギーがすごい。

 

 

「生きる」とはこういうことか!

と、みんな必死で生きていました。

 

 

当時は研究室に留学生もいたので、

英語もまあまあ話せましたし、

現地の人と交流するのは楽しかったです。

 

 

修士論文では、シェアハウスの研究をしました。

 

 

実際にシェアハウスに住みながら研究をする、

ということで、家賃は大学から出してもらえました。

ありがとうございます。

 

 

シェアハウスは50人くらいの規模で、

学生はぼく1人。あとは全員社会人。

 

 

最初はちょっと緊張しましたが、

だんだんと打ち解け、仮装パーティーなどをしたり、

最終的にはかなり楽しめました。

 

 

もちろん、論文も滞りなく完成し、

シェアハウスの運営会社からも評価されました。

大学には「来年もお願いします」という依頼が来ていました。

 

 

女友達や、彼女も出来ました。

こんな感じで、大学院生活は順風満帆。

 

 

この辺りが人生でいちばん楽しい時期だったかもなぁ。

 

 

こんな感じで、

チャレンジだった大学院生活は成功して終わります。

 

 

社会人(1年目~2、3年目くらい)

 

24年かけて、ようやく東京で社会人になりました。

ここからがリアルワールドです。

 

 

最初の2年弱は、研修やらなにやらで、

仕事自体には大したトピックはありません。

 

 

一方でプライベートでは、ストリートナンパに目覚めました。

 

 

いきなりナンパ?という感じかもですが、

これには3つ理由があります。

 

 

1つ目は、合コン後の二次会カラオケが苦手だから。

 

 

多くの女性と知り合うには、合コンが定番ですよね。

これまでも合コンをしたことはありましたが、

たいてい自分で主催してやっていたので、

二次会はコントロールできました。

 

 

でも友達が少ない東京では、

誘ってもらうパターンが多くなりがち。

すると、どうしても定番のカラオケ二次会になります。

 

 

カラオケが苦手なぼくは、

だんだんと誘われても断るようになってしまいました。

 

 

結果、なにか別の手段で女性と出会う機会をつくる必要があり、

ナンパという手法に行きつきました。

 

 

ちなみにカラオケが苦手なのは、

音痴だからというのもありますが、

みんなで同じノリを強制されるのが嫌だからです。

 

 

2つ目の理由は、ナンパ自体が魅力的だったから。

 

 

ナンパというと悪いイメージを持つかと思います。

でも控えめに言って、

ナンパは誰にも何にも依存せずに、

じぶんの力で女性と出会えるという最強スキルです。

 

 

ぼくに言わせると、合コン、相席居酒屋、紹介、マッチングアプリなどの仕組みは、何かに頼っているだけ。

恋愛に対して自立していないとも言えます。

 

 

さらに、合コンみたいにお金も時間もかからないし、

タイプじゃなければやめればいいし、

ライバルもいないから自由です。

 

 

特に合コンで盛り上げるのが苦手な人ほど、

ナンパをやってみると良いと思います。

 

 

2人で話すだけなので、合コンで盛り上げるスキルは全く不要。

もちろん楽しそうな人感を出す必要はありますが、

自分のペースで出来るのが何よりラクです。

 

 

ぼくの考えでは、

ナンパをするならストリートでシラフでやるに限ります。

 

 

たとえばクラブでお酒を飲んでナンパしたことがある人もいるかもですが、

結局はクラブとお酒に頼っているだけ。

 

 

自分の力で女性と出会いたいなら、

ストリートナンパをシラフでやることです。

 

 

最後に3つ目の理由は、

PDCAをまわして上達していく過程もおもしろいからです。

 

 

ナンパは自分自身を商品として売るマーケティングです。

 

 

じぶんのキャラクター的に、

どの街でナンパするのが良いか、

どんな服装が良いか、

どんな話のネタで、どんなトーンで話すのが良いか、

などなど、試行錯誤と回数を重ねることで、

じぶんを最適化していきます。

 

 

営業の方は絶対やった方がいいですね。

仕事だと思えばだれでも出来るはずです。

 

 

ぼくの場合は、

・チャラチャラしたタイプではないので、あくまで紳士的な感じを目指す

・服装はスーツや都会っぽい感じ

・場所は恵比寿、代官山、銀座あたり

・20代後半~30代前半のキャピキャピよりも、落ち着いた女性

この辺りを考えつつ、やっていました。

 

 

具体的にどうやって声をかけていたかというと、

下記の感じ。

 

 

「あの、この辺りで良い感じのバー知りませんか?」

⇒「え、いや、知らないですけど・・・」

「そうですか・・・ゲイでも楽しめるバーを探してるんですけど・・・」

⇒「え、ゲイなんですか?」

「ゲイ目線で見てもお姉さんキレイですよね。」

 

 

と、まあこんな感じ。

「お姉さんキレイだね~。飲もうよ~」みたいな、

チャラチャラした人にありがちな、よくある声のかけ方はしません。

 

 

あくまで紳士に声をかけるのが、ぼくのマナーです。

(ナンパにもマナーはある、というのが自論です)

 

 

当時はやっていたナンパブログも熟読しました。

特に「六本木でナンパしながら起業する」というブログすべて読みました。(今は閉鎖されています)

 

 

ナンパのPDCAを体系的にまとめ、

戦略的にデータをとりつつ、どこが弱いのかを分析して、

取り組んでいきました。

 

 

ここらへんは、高校時代へのサッカーへの取り組み方と同じです。

常にデータをとりつつPDCAを回しながら、

考えつつ行動する。

 

 

これは会社員としても役に立つスキルだと思います。

 

 

結果的に、今の妻はナンパで知り合って結婚に至りました。

これだけでも、ナンパをしていた甲斐はありましたね。

 

 

遊びも仕事も真剣にやるのが、せのしゅん流です。

 

 

社会人(3年目~6年目)

 

さて、ようやく3年目くらいになって本配属です。

(遅すぎますよね)

 

 

もともとやりたいと思っていた、

発注者として建築に関わることのできる部署になりました。

 

 

最初はとにかく仕事を覚えるのが大変。

女性の先輩の下についたのですが、

この先輩が気分屋で、取引先の前で怒鳴られたこともあります。

 

 

さらにその上の上司(女性)も変わった人で、

昔は、机の上に足を乗せてタバコを吸いながら、

「ふざけんじゃね~!」と言って電話をたたきつけ、

電話を壊したという逸話がある人でした。

 

 

配属されてみてからわかりましたが、

社内でもトップ3に入るキツイ部署でした。

 

 

仕事量も多いし、最初は正直ついていけませんでした。

 

 

そこで、これまでサッカーやナンパで培ってきた、

毎日反省をしてPDCAを回すスキルを活かし、

日々の仕事の反省をするようになりました。

 

 

具体的には、

・上司からアドバイスをもらったこと

・もっとこの人にはこう言えば良かったなということ

・わからない単語を調べること

をノートに書き留めていきました。

 

 

特に建築業界の用語はなじみがないので、

画像検索を使うとイメージが湧いて便利でした。

 

 

これによって1つずつですが、

仕事が出来るようになっていきました。

 

 

結果、配属されて1年目から発注件数が最多となり、

一躍、若手エースとして存在感を示せるようになりました。

 

 

仕事自体も、当初思っていたように、

発注者としてかかわるのは面白かったです。

 

 

自分のプロジェクトでは発注者である自分がリーダー。

設計者や施工会社に指示を出して、

自由にコントロールすることができました。

 

 

設計者や施工会社の人は、40代とか50代の人も多いのですが、

臆せずに指示を出したり、金額交渉することは得意でした。

 

 

10億円単位のプロジェクトを全てじぶんで動かせるのは、

ダイナミックで楽しかったです。

 

 

特にうれしかったのは、

大手施工会社の50代ベテラン所長が、

「すごい新人が入ってきてますね」

と言っていたと上司経由で聞いたことですね。

 

 

そして配属2~3年目には、一大プロジェクトを担当・成功させ、

一級建築士の資格も最速で取得。

他部署もふくめた社内でも存在感をさらに高めていきました。

 

 

この辺りが一番仕事たのしかったなぁ。

 

 

社会人(7年目~執筆時点)

 

7年目になると、仕事内容がすこし変わってきます。

 

 

それまでは、現場に近いところの仕事だったのですが、

数百億円規模の計画段階のプロジェクトを担当するようになります。

 

 

ここら辺から、少し仕事に違和感を感じ始めます。

 

 

というのも、

上司や経営層からの指示に翻弄されて、

じぶんでプロジェクトをコントロールすることが出来ないから。

 

 

ひたすらパワーポイントを直す日々です。

 

 

この頃から、

「このまま今の会社にいて良いのだろうか」

と疑問を持ち始めます。

 

 

社内にカッコイイと思う上司もいないし、

このまま上司の言いなりになって日々を過ごすのか、

と思うと未来に希望が持てませんでした。

 

 

転職活動もやってみました。

 

 

なんとなく分かっていましたが、

不動産ディベロッパーの業界は汎用性が低い仕事が多く、

転職するにしても幅がとても狭いです。

 

 

たとえば金融であれば、

あらゆる分野で知見が活かせたり、

給料も上がっていきやすいと思います。

 

 

一方で不動産ディベロッパーは、

地権者、行政や社内調整スキルだけが高まって、

他の分野で活かせるスキルがつきません。

 

 

選択肢としては、どの業界からでも応募できるコンサルティング会社か、

同業界の給与水準がさらに高い会社に行くか、くらいです。

 

 

激務のコンサル会社は嫌だったので、

とりあえず同業界を受けてみました。

 

 

内定をもらった会社もありましたが、

結果的には、仕事内容に魅力を感じなかったことから、

辞退をします。

 

 

この転職活動をしてわかったのは、

不動産ディベロッパーとして働いている限り、

じぶんでプロジェクトをコントロールできるようになるのは、

これから先もむずかしい。

 

 

となると、じぶんで何かやるしかないな、

と考えました。

 

 

幸運?なことに、別に建築が大好きでこの業界を選んだわけではありません。

さらに、少子高齢化、人口減少が進む日本では、

不動産ディベロッパーの需要はますます減っていき、

将来性は低いです。

 

 

せっかくなら、これから先伸びていくこと、

自分でコントロールできる仕事をやりたいと思いました。

 

 

そこで、まずはプログラミングを勉強してみました。

 

 

高校の理数コースで、

当時かなり先進的だったプログラミングに触れたこともあり、

何となくは分かっていました。

 

 

場所にとらわれずに仕事ができるのも魅力的でした。

 

 

でも、特に面白さを感じることもなく撃沈。

 

 

つくりたいサイトやアプリがなかったので、

勉強のための勉強、という感じになってしまい、

やりがいが見いだせなかったです。

 

 

他にも、建築に関する情報を発信しようと思い、

YouTubeやラジオ、ライブ配信などもやってみました。

 

 

でも、これも続きません。

 

 

試しにアップしてみたのですが、

気を張って撮らないといけなくて、

疲れてしまいました。

 

 

もとから、人に気を使うのが嫌で発注者の仕事を選んだので、

これは向いていなかったのかもしれません。

 

 

最終的に続けられたのが、このブログです。

 

 

ブログは自分の好きなタイミングと場所で出来ますし、

気合を入れて文章を書く必要はありません。

 

 

さらに、物事を体系的にまとめて発信するのは、

仕事でやってきたことにも通じるので、得意でした。

 

 

資産としてストックしていけるという点も、

自由な暮らしに少しずつ近づいているイメージがあり、

嬉しいポイントです。

 

 

こんなわけで、このブログは始まりました。

 

 

2年目には年間で20万くらい稼ぐこともできました。

3年目は仕事が忙しくて更新が月1回くらいになりましたが、

これからできるだけ更新を再開していきたいと思います。

 

 

一方で、プライベートでも大きな変化があり、

ナンパで知り合った女性と結婚することになりました。

 

 

妻は2歳年上で、某広告代理店で働いています。

気配りができて、いろんなことに興味があるアクティブな女性です。

 

 

ナンパで知り合ったときは、

お互いにまさか結婚するとは思っていませんでしたが、

しばらくしてお付き合いを始め、一度別れたりしたこともありましたが、

約2年くらいで結婚することになりました。

 

 

いざ結婚が決まると、

前述したように、「このまま会社で働き続けて良いのか」

という点を含めて、将来の見通しを考えるようになりました。

 

 

大学生のときに祖父が亡くなった遺産をもとに始めていた投資が、

それなりの額になっていたこともあり、

FPを雇ってライフプランを立ててもらったり、

投資のアドバイスをもらったりしていました。

 

 

当時、ビジネス系YouTuberがはやっていたこともあり、

そのころから投資に本格的にのめり込むようになります。

 

 

また、FIRE、セミリタイアという概念に出会ったのも同じ時期です。

 

 

それまでは会社を辞めて暮らしていく、

という考えを持ったことすらなかったです。

 

 

が、資産がそれなりに増えていたこと、

場所や会社、人に捉われず自由に暮らしたい、

という航海士に憧れていたときの気持ちを思い出したこと、

またブログでの収入にも可能性を感じ始めていたこと、

などが重なり、本格的にセミリタイアを目指すようになりました。

 

 

手始めに、FPは手数料が高いため1年足らずで解約。

固定費の削減のためにスマホを変えたり、

電気やガスの契約を変えたりなど、家計の改善に努めつつ、

投資資金を確保して毎月夫婦で40万円の積み立てを始めました。

 

 

会社の福利厚生で、相場の1/3くらいの家賃で住める社宅の存在も、

とてもありがたかったです。

 

 

こうして、会社員として働きつつブログを書き、

積極的に投資をしてセミリタイアを目指す、

というスタイルが確立していきました。

 

 

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現在、次のステップとして札幌への移住を計画中です。

もう少し状況が見えてきたら、この記事も更新したいと思います。

 

 

ここまで読んで頂き、本当にありがとうございます。